MAD MAX 怒りのデス・ロード
ジョージ・ミラー謹製で正真正銘の続編、マッドマックス期待してました。アカデミー賞も編集賞、美術賞、衣装デザイン賞、メイキャップ&ヘアスタイリング賞、録音賞、音響効果賞の6つを取って絶好調という感じでしたが、初見としては辛口評価をせざるを得ないでしょうね。
例により、世紀末的・人類滅亡寸前の未来をsurvive中のマックス。たまたま捕まってしまった砦から、独裁者の妻他、女たちが逃げ出す逃避行に巻き込まれてしまう。女たちが向かうのは「緑の土地」だという。そこを目指して怒りのデス・ロードを疾走しまくる話です。そもそも、マッドマックスを全作見てないと入りづらい世界観でしょう。なんでマックスは捕まるの?あのけちくさくばらまかれた水は何?ガソリンあげるから交換条件で逃がしてとか、おっきい弾は二発しかなく、役に立たないってなんで?等々、特に一作目と二作目を何度か反芻してないとにわかにはこの世界に入り込めないのではないでしょうか。
また、時々出てくるあの子はだあれ?というのも一作目、二作目との強いつながりを感じます。そしてその子に掻き立てられる罪悪感からでしょうか、マックスはこの女たちを守る役回りを結局演じさせられます。マックスを輸血袋代わりに使っていた戦闘員も、一人の女の色香に惑い、神とあがめる”ジョー”を裏切り、女たちのために戦います。
わかる。男としては抗いがたくそうなる。わかるよ。。。
ただ、ちょっとだけ気になってしまうのは、映画の中で女も死ぬけど、女は自分の理想に向かって走った結果、死ぬ。けど男は違う。女の理想への疾走をサポートして死んでいく。つまり女は理想を追え――男は死んでそんな女に奉仕しろ、という話になっている。
このマッドマックスがアメリカで公開された時、「男性の権利擁護活動家:MRA」が「本作品にはフェミニストのプロパガンダが込められており、ハリウッドのリベラル派がまたしても、伝統的な「男らしさ」の概念を損なおうとしている」と声を上げたそうだ※。こうした主張には苦笑するしかないが、ただ、この映画があまりにもフェミニズムのご都合主義になっているのも事実だろう。婆さん戦士たちが現れたのにも苦笑してしまった。
それでも30年前の三作目・サンダードームの雪辱戦としてはよく頑張ったとは思う。公開時、サンダードームとは何かがわかった瞬間、あきれてものが言えなくなった。ジョージ・ミラーはそのときの屈辱を晴らしたかったのだろうと確信する。テイストとしても二作目に近いものがあり、まあまあ渋くてこれはこれで良いか、と容認していい気持ちにはなる。ただ、一作目のマッドマックスに魅せられてきた中年としては、この映画は何に対する批判になっているのか全くわからない。一作目は公共の道路を我が物顔で爆走する暴走族への憤りの映画であって、よくわかるし共感もあった。だが二作目以降、どの世界の、何に対する批判か皆目わからなくなり、詰まるところサンダードームへと逃げ込んだ。
そして今作、女性が男の支配から逃げ、それを男が死んでサポートする話になった。まあいい。確かに男の幸せは畢竟そんなところにあるのは事実だ。だけど今作を見て怒りを共有できるのかといえば無理だ。それがどうしたという気分になるし、権力者で富も持っている男から逃げたい女のわがままにはまったく共感できない。女の活躍劇のどこにもハッと目を覚まさせる要素が見当たらない。むしろそんな女の小乗仏教にまで男は奉仕する定めになってるのかなと悲しい気分にさせられる。どうせ女性が活躍する映画を作るなら、女性が戦う真の意味を見せてほしかった。残念ながらこの映画にそういう要素はどこにも見当たらない。
技術的なことをいえば、サウンドデザインは本当にすばらしい。衣装・美術も感服した。私個人としては編集賞以外は納得だ。が、作品賞とか監督賞、各男優女優賞を取れなかったのも納得。また視覚効果賞をインディペンダントのEx-Machinaに取られたのも合点がいく。というのもこれほど精密に書き込んでもCGIが本当にウザい。SFXのメイキング映像で爆発や火柱のほとんどがCGIなのを観て、ここまでCGIで描けるようになったのかと心底驚いていたが、実際に映画を観ると計算ずくで偶然性のかけらも感じられない。それはそれは不自然な出来で説得力がない映像に仕上がってしまっていた。これでは賞は採れないだろう。映像表現は、シミュレーションではなく、偶然の光景を幸運にも撮影できた驚きがベースとして支えている。ならばCGIはもっと謙虚に、控えめな使われ方をするべきだと改めて痛感した。
それからくどいようだが、サブタイトルの「怒りのデス・ロード」はいただけない。fury roadがなんで「怒りのデス・ロード」になるのか。ご丁寧に劇中の字幕まで、fury roadは怒りのデス・ロードと訳されていた。タイトルの意味不明な英英訳は映画を下品にするだけだ。こと、今回の言い換えは、下品を通り越して失笑ものだろう。日本人の英語感覚を側面から狂わせるこうした愚行はいい加減やめるべきである。2016.3.8