アントマン

小さくなったり大きくなったりする、というのは面白い画が撮れそうだと期待していたのだが、まあまあ期待外れだった。ビジュアル的、というよりスラップスティック的演出のツールであった、という印象。しかし、二つの矛盾する要素のため、無前提に作品を楽しめない出来となっている。

ひとつは、スラップスティック・ファミリーコメディで、ジョン・ヒューズ張りの家族愛を描いているのに、活躍するのは犯罪者小集団といういただけない設定。犯罪者が、犯罪で、家族愛を表現する、ってどうなのかな。しかもまったく説得力のない、形骸化した家族愛。

同様の展開、すなわち犯罪者小集団が活躍し、家族愛を表現するという点では、ニール・ブロムカンプのチャッピーも同類と言える。しかしチャッピーでは犯罪者は犯罪者のまま、正義になることなく最後まで描かれる。が、そこから描かれる家族愛は、形骸化とは無縁の、凄まじく型破りの家族愛であり、しかも逃れる術のない説得力でもって観るものの心の琴線に触れてくる。

この衝撃がアントマンにはない。敢えて解釈するなら、家族を失った犯罪者が、家族愛を取り戻したいという妄想に浸っているような表現である。そう解釈すれば犯罪者が犯罪行為で大活躍して娘に尊敬されるという展開は承諾可能だ。いっそそういう妄想話にした方が、笑えて、かつ味が出る作品になったのではないかという気がするが、原作ものなので不可能なのかもしれない。

ふたつ目は、大きくなったり小さくなったりするビジュアルがアート感と新鮮味を醸し出す反面、小さくなった世界の映像がグロテスクすぎ、単なる「気持ち悪いビジュアル」にしかなっていないこと。

言うまでもなく、アントマンの指揮下にある蟻軍団の気持ち悪さは最初から最後まで拭われることはなかった。表現としてみると、この気持ち悪さは、ロード・オブ・ザ・リングの戦闘シーンで始めて感じ、以後、欧米風の歴史的な戦シーンで繰り返し表現されてきているあの戦闘表現様式の延長線上にある。私は当初からずっと気持ち悪いと感じてきていた表現だったのだけれども、アントマンでその謎が氷解した。ズバリ、「蟻が群がる」表現だったのである。だから気持ち悪かったのだ、ということをこの作品は教えてくれている。

それだけでなく、排水口から潜入するシーンや、何故光が見えるのかが理解不能な「量子化した世界」も美しいと言うことはなく、やはりグロテスクに「描かれていた」という気がする。

そういうわけで、大きくなったり小さくなったりするというせっかくのアイディアも、ビジュアル的にはむしろグロテスクでしかなかったという他なく、もったいないなあと思いながら観たのでありました。

2018/09/12、日テレ『金曜ロードショー』録画で鑑賞   ★★☆

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