映画「A.I. Artificial Intelligence」の始点と視点
2002/3/1投稿 このページの最終更新日: 10/27/2002 16:58:30
Kubrickファンでありながら、不覚にもわたしは「A.I.」がKubrick自身 の手になる企画だとはまったく知りませんでした。劇場公開前にmospeada さんからその事実を知らされ、「2001年宇宙の旅」のテーマと対立する かに見えるこの企画がKubrickのものだとはどうしても信じ難かった―― そこでその真偽を確かめようとあれこれ調べるうち、「2001年宇宙の旅」 を撮り終えた頃のインタビュー記事の中に、いわば「A.I.」の始点ともい うべき着想をKubrickが語っている部分を見つけました。本稿はその発見 の報告です。
■1.「A.I」はたいへんポレミカル さて、そもそもSFの金字塔を残したKubrickが、ロボットものの映画を 撮ることの何がそれほど大騒ぎなのだろうか。この点がわからない方が、 「A.I.」を劇場で観られた方の中にも、多々、いらっしゃると思います。 一言で言えば、「A.I.」は、自然科学と人文社会科学の間にある根深い対 立を直接的にテーマとして取り扱うもので、下手に触れると大火傷を負い かねないポレミカル(論争的)な領域を扱った作品です。 もう少し具体的に言えば、生命はどこからきたかという問いに対し、原 理的に唯物論(森羅万象すべての現象は何らかの物質的な原因により起こさ れているとする考え方)の立場を採る自然科学では、物質と物質の偶然の作 用の積み重ねから発生したと考えるのに対して、人文社会科学的な発想で は必ずしもそのような偶然的要素だけでは生命の発生を説明できないとし て、「意思」が生命の発生に先行する、という考え方が採られることが少 なくありません。自然科学的生命観が無神論的生命観だとすれば、人文社 会的生命観は少なからず有神論の書き直しという性質を持っているといっ て良いと思います。 「神」などというと誤解を招きそうですが、要は森羅万象すべてのもの が物質で説明できるけではない、たとえば歴史や文化、民族といった現象 はなんら物質的には説明できないので、物質に還元できない精神性(スピリ チュアリティ)こそが現実の生命の営みの説明として理に適っているという という立場を採っているということです。難しくてよくわからないという 方のために敢えて誤解を招く言い方をすれば、生命は、神がつくったのか そうでないのかで、学者でも、自然派と人文社会派では激しく考え方が対 立している現実があるということです。 「A.I.」は、実にそこに切り込んで見せた作品です。
■2.「2001年宇宙の旅」のスピリチュアリティ そしてKubrickは、かつての立場をひるがえし、激しく対立するもう片 方の立場に鞍替えしたかのような印象をこの作品で醸し出しました。でき あがった完成品を観ればそれは錯覚もしくは誤解であるとわかるのですが、 「2001年宇宙の旅」でたいへん見事に「意思」ある生命観を映像表現した 人が、なぜ、機械的知性を生命と誤認したり、感情を知性と混同する立場 に迎合するかのような構想を立てたのでしょうか。 キューブリックの頭の中には、そもそも「2001年~」の製作時点から相 矛盾する強い思いが同居していたようです。これはキューブリックの、 1970年にアメリカで出版されたインタビュー記事の中の発言にはっきりと 見て取れます。 まずはスピリチュアルな生命について語った部分を見てみましょう。 ***** Stanly Kubrick (以下、SK): 神の概念がこの映画(2001年宇宙の旅:注はKiwi)の中心にある。宇宙 が進歩した知的生命でひしめき合っていると一旦信じたなら、神がい ることは否定できない。。。人類の遠い進化上の祖先が、ちょうど原 始の沼からはい上がってきた昔に、宇宙の最も遠い区域を探検する宇 宙船を送り出し、自然界のすべての秘密を征服していた文明が、あっ たに違いないのだ。そういう宇宙的知性は永遠に等しい間、知識を発 達させてきたのだから、我々と蟻がかけ離れているのと同様に、人類 とかけ離れているだろう。。。究極的な姿では、彼らは肉体の殻を完 全に脱して宇宙中に広がる、肉体を離脱した不死の意識として存在し ているのかもしれない。 こういった可能性を議論し始めたら、宗教的な掛かり合いが不可避 なことは理解できるはずだ。何故なら、このような地球外生命の基本 的な属性は、皆、我々が神に与えた属性だからだ。ここで我々が本当 に扱うのは、実際のところ、科学的に定義された神だ。そしてもし、 これらの純粋知性体が人類の問題に干渉していたら、我々はそれを神、 あるいは魔法という言葉でしか理解できないだろう。彼らの力は我々 の理解を遙かに越えているのだからね。自分の蟻塚を壊す足は、知覚 力ある蟻にはどう見えるだろうか?――自分よりずっと進化した別の 生き物の行動と見るだろうか?それとも神の畏くも恐ろしい調停と見 るだろうか? SK:この映画の製作の最初の時点で、我々は皆、その存在それ自体のよう に驚異的な仕方で、地球外の生物を描写する撮影方法について議論し た。そして間もなく、想像できない程のものは、想像できないことが 明らかになった。せいぜいできることは、その性質のどこかを伝える ように、芸術的方法でそれを表現してみること位だ。それが、黒いモ ノリスを設定した理由だ。――それはもちろん、それ自体若干ユング の原型(アーキタイプ)でもあるし、また< ミニマル・アート>[最小限 の造形手段を用いて製作された絵画・彫刻]の好個の例でもある (ジョセフ・ジェネミス,石田タク・関谷浩至訳,「キューブリックか く語りき」,『キューブリック』,月刊イメージフォーラム1988年4月 号,No.95,1988,pp45-46) ***** このように、キューブリックは「2001年宇宙の旅」のテーマが神とのス ピリチュアルな接触に置かれていることを明言し、しかもその接触を象徴 するモノリスを「ユングの原型」でもあると明言しています。 このことから、この作品で描かれていたのは、ひとつには、ユングの言 うcollective unconsciousness(集合的無意識)であったことがはっきりし ます。ここではユングの集合的無意識については触れませんが、これは Kubrickが、知性というものをスピリチュアルな存在と見なしていたひとつ の動かし難い証拠となるものです。 ところが、そのKubrickが、同じインタビューの中で次のようにも語って います。
■3.神経症のコンピューターというアイディア ***** SK:HALは< 正常な>コンピューターだった。 ――何故、コンピューターが人間よりも感情的だったのですか? SK:何人かの否定的な批評家たちを魅了したらしいのは、その点だった。 彼らは、宇宙飛行士よりもHALの方が面白いのは、映画のあの部分の 欠点だと思ったのだ。 [中略] 映画のこの部分で伝えようとしたことの一つは、――我々の世界がす ぐにそうなるような――人間と同様の、或いはそれ以上の知性を持っ た、機械的実体のいる世界のリアリティだ。それらは、人間と同じ感 情の潜在能力を、それぞれの個性の中に持っている。我々は、そんな 生き物と一緒にこの惑星に住むことが一体どのようなものかを人々に 考える気になって欲しかったのだ。 (同上,pp47-48) ***** これこそ、1970年のインタービューの中でキューブリック自身が明らか にした「A.I.」の発想の始点と言うべき部分です。 この直後に、さらに次のように続きます。 ***** HALという特定の場合では、彼は自分自身の誤り易さの証拠を認めること ができなかったので、急激な感情的危機を迎えた。神経症のコンピュー ターというアイディアは、珍しいものではない。――人間よりも知性が あり、経験から学ぶことのできるコンピューターが生まれれば、それが、 恐怖、愛、憎しみ、嫉妬といった人間と同じ感情的反応を発達させるで あろうことは不可避だと、コンピューターの最先端の理論家の多くは確 信している。そういう機械は、結局人間と同様に不可解になり得るだろ うし、また、当然、神経衰弱にもなり得るだろう。――映画でHALがなっ たようにね。 (同上,p48) ***** もうこれが、「A.I.」の基本コンセプトそのものであることは疑う余 地がないでしょう。と同時に、キューブリックはこの発想を「コンピュー ターの最先端の理論家」の確信から受け継いでいることもはっきりとわ かります。これは物質の偶然の組み合わせが生命を産むと見る、つまり 唯物論的生命観から見た知性のあり方であり、Kubrickはこのとき「2001 年宇宙の旅」で描かれた生命観とは激しく対立する生命観を採ったこと になります。
■4.スタンリーの異常な愛情 ブライアン・オールディスは、キューブリックに次のSF映画について 相談されたとき、最初、P.K.ディックの「火星のタイムスリップ」を迷 わず推薦したそうです(ブライアン・オールディス,「スタンリーの異常 な愛情」,『スーパートイズ』,中俣真知子訳,竹書房,2001:pp345-363)。 ディックファンには定番のこの小説は、まさに「究極的な姿では、彼 らは肉体の殻を完全に脱して宇宙中に広がる、肉体を離脱した不死の意 識として存在している(「キューブリックかく語りき」:p46)」かもしれ ないとするキューブリックの着想に格好の題材であったはずです。そう いう存在が「火星の住人」として登場してくるからです。しかも言語障 害の少年が主人公という、「A.I.」とよく似たキャラクター中心の話で す。 ところが、「スタンリーの異常な愛情」によれば、Kubrickはオールディ スからのそうした良心的な提案をはねのけ、あくまで「スーパートイズ」 の映画化に異常な執着を見せていたようです。その理由のひとつはおそ らくこうでしょう。即ち、次回作の基本コンセプトが、上記「コンピュー ターの最先端の理論家」の確信から受け継いだ、偶然の産物として感情 をもち、「人間と同様の、或いはそれ以上の知性を持った、機械的実体 のいる世界のリアリティ」を描くことにあったからだと。 しかしながら、実際にできあがった「A.I.」では、そうした機械的実 体には、完全な生命は宿らないものとして描かれ、「コンピューターの 最先端の理論家」の確信が否定されます。30年の月日を経てKubrickは、 生命は、あくまで意思が先にあって存在する、という生命観に結局は回 帰したのでしょうか。DVDが発売になったら、このあたりをさらにじっく り考えてみようと思います。
参考文献 ジョセフ・ジェネミス,石田タク・関谷浩至訳, 「キューブリックかく語りき」, 『キューブリック』,月刊イメージフォーラム1988年4月号,No.95,1988
ブライアン・オールディス,「スタンリーの異常な愛情」, 『スーパートイズ』,中俣真知子訳,竹書房,2001:pp345-363
eiga.com編集部,「A.I.」その成り立ちから完成まで,2001.6.5 http://www.eiga.com/special/ai2/index.shtml