ふくろうの河と未来世紀ブラジルの分岐点

録画したまま6~7年放置していた『冒険者たち』を観ていたら、監督のロベール・アンリコの『ふくろうの河』が観たくなった。久々にシリアルナンバー付セルDVDを再生。

ここでいう『ふくろうの河』は、三部作の最終章。そのストーリーは、未見の方の為、ここでは絶対に口にできない。

映像表現としては、短い時間の中で起こった出来事を、縦横無尽、懇々切々と執拗なまでに描き切るスタイル。マクロな渓谷の俯瞰シーンから、ミクロに人物の額に流れる汗のカットまで、或いは『駅馬車』張りの速いテンポのカットバックから、長く直線的な林道を駆ける男を延々と長回しで捕らえたり、水の中、虫の仕草、森の木漏れ日、砲弾の水しぶき、そして本物の濁流に呑み込まれる人――

その重厚な書き込みの果ての思いがけない演出――そのスタイルは、テリー・ギリアムが惚れ込み、『未来世紀ブラジル』の重要なシークエンスでオマージュを捧げた、ある種ドイツ表現主義から継承された内面性の表現――ほとんどシュールレアリスム――といえるものである。

『ふくろうの河』を初めて見たのは高校生の頃。まだレンタルビデオなど影も形もなく、旧作映画はとてつもない労力をかけて初めてお目にかかれる代物だった。休みの日には、毎号のLマガジンでチェックした各種上映会の個人スケジュールに沿い、観たい旧作映画を掘りに各地を歩き回っていた。

ある時、大阪市内の極小雑居ビルでこの『ふくろうの河』上映会があると知り、出かけたはいいが、会場を地図では探せず、ガソリンスタンドのおやじに探し当ててもらってどうにかこうにか辿り着いた思い出がある。私の中でこの映画は、そういう「ありがたい」映画であった。

その時の上映会場は畳6畳ほどの会議室。スクリーンはホワイトボードに白布掛けた急ごしらえのもの。座席は当然パイプ椅子。それでも、その思いがけない映像演出に打ちのめされた記憶が今でもハッキリと残っている。

それが今ではDVDで鑑賞できる。画像も奥さんの涙がハッキリ見えるぐらい鮮明だ。

ありがたいが、「上記の苦労が私をしてこの映画を過大評価させていたのだ」などという不都合な真実が明らかになったら嫌だな、とも感じていた。ところが、幸いに、というか逆に、この映画の衝撃は、観たときの鑑賞環境に決定されるようなものではなく、キチンと描き上げられた映像で確固として表現されたものだったと、納得することができた。これを今は家で観られるのである。本当にありがたい。

やや話がそれたが、そもそもなぜ『冒険者たち』を観ていてこの『ふくろうの河』が観たくなったのか。

私は初見なのだが『冒険者たち』の表現はテレビドラマ『傷だらけの天使』に強い影響を与えていると診た。そして、変な話、その表現は『太陽にほえろ』『西部警察』へと引き継がれてると感じた。ヌーベルバーグではあるのだろうが、もう少し詰めると『冒険者たち』の実存主義表現の流れになるのではないかと思う。

では同じ監督の『ふくろうの河』にも『冒険者たち』と同様の実存主義の要素があったのだろうか――そこが気にかかったのだった。

別の言い方をすれば、この作品に惚れ込んだテリー・ギリアムは「空想実在主義」とでも呼ぶべき発想を持つ人物で、そんな人物が惚れ込んだこの作品に果たして真逆の現実存在主義の要素があるのか?

あった。「生きている男」という歌。

生きている男 生きている男
I’m a living man I’m a living man
私は生きている男でありたい
I would be a living man
そして男は世界中を回る
And all the world he moves around
あちこちを巡り 歩き回る
he hooks aroud he turns around
木の1本 葉の1枚に目を留める
I see each tree I hear each leaf
葉にとまる虫の一匹も見逃さない
I hear each bugs upon each leaf
虫の羽音 魚が水をはね上げる音
the burning Flies the splashing fish
生きている男の周りで世界は動く
They moves around a living man
生きている男 生きている男
I’m a living man I’m a living man
私はこれからも生き続けたい
I would be a living man

これは死に隣接し、現実存在が露呈してくる過程を歌で表現した部分。確かに『ふくろうの河』にも実存主義的要素があることを確認できた。

そしてギリアムの場合、『未来世紀ブラジル』の同じ場面で露呈してくるのはあくまで空想であった。ギリアムは、『ふくろうの河』にオマージュを捧げつつも、肝心の実存主義の部分を換骨奪胎し、空想が出てくるよう改変していることになる。

まさしくここが『ふくろうの河』と『未来世紀ブラジル』が分岐する地点と言うことができるだろう。ギリアムはやはり筋金入りの空想実在主義者といって良い。

余談だが、『ふくろうの河』DVD。手持ちカメラが主体であるこの作品、エンコーディング時にレンダリングが追いついてないのか、微妙な手ぶれの部分でフニャフニャと映像が歪みがちになっている。これはもう一度デジタルリマスタリング掛けてブルーレイか4Kで作り直した方が良い。せっかくのデジタライズがこれでは不十分でもったいない気がする。

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